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「私が死んでも、気に病むなよ」 掌が、汗ばんできた。 「五月蝿い」 「……病まない、か。君なら」 「五月蝿い」 「そうだな、いっそ私のことなど忘れてしまうと良いかもしれない」 段々と、手が、滑って。 「五月蝿い」 強固に見えた繋がりが、どんどんと脆く弱く緩く、なっていく。 「そうさ、それがいい。こんな嫌な思い出は忘れるに限る」 「五月蝿い」 ぎちりと、肩が何度目かの悲鳴をあげる。 腕の肉が引きつれて千切れそうに鋭利な鈍痛を訴える。 骨が軋みをあげて嫌な痛みを脳に伝える。 手が、指が、いい加減に体重に堪え切れなくなってきて、間接が外れるような限界の証を示す。 けれどそれよりもずっとずっと、胸の奥のほうがぎしぎしと痛い。 なんだろう、これは。 「さあ、そろそろ手を離すといい。私の手はこれからどうせ潰れるからいいが、君の手の方が痛んでしまう」 「五月蝿いと言っている」 半ば断ち切られるように、ぴしゃりと言われる。 何だろう、声色はいつもと変わらないはずなのに。 どうしてそれだけで、胸が掻き毟られるんだろう。 「……やめて、くれないか。そんな事を言うのは」 「いいから黙れ。そして何とかして手を伸ばせ」 何とかしてだなんて、君らしくないよ。 「……未練は、あまり残したくないんだ」 「何の未練だ。意味がわからんな」 横風が吹く。 耳元を騒がしく空気が掠めて、ぐらりと、私の体が揺れる。 ぎしり。手が少し滑った。 「今日は随分と物分かりが悪いね?君らしくない」 「知らんな。分からんものは分からん」 「……少しすれば、否応無しにわかるさ」 少し緩んでしまえば、後はもう止めようがない。 ずるずる、ずるずると、下に下がっていく。 「いや、分からんな。教えろ」 「もう、そんな時間ないよ?」 苦笑する。 すると、もう間に合う筈がないのに、これ以上強くなるはずがないのに、何だか彼の握る力が更に増した気がした。 「無論、上がってきてからだ。早くしろ。お前の言うように手が限界だ」 「だったら、離せばいい。上がるのは無理だ」 「やってみなければ、わからんだろう」 「もう、やってみたさ…」 ぎし。 ぎしぎし。 ずるり。 ……。 手が。 手が、もう、控えめな握手ぐらいにしか、繋がっていない。 「ねえ空目くん、わかるだろう?私はもう助からない。重度の感染者の方がまだマシなくらいに」 「五月蝿い。」 「自明のことだ。どうしたって、もう手遅れ。奇跡にだって助けようがない」 「五月蝿い、」 前髪に覆われて、彼の顔が見えない。 「このままだと君にも良くない。だらだらと引き伸ばさずに、」 「五月蝿い!」 ―――怒鳴、られた? あはは、怒鳴られちゃった。 空目くんに。 初めてだよ、こんなの。 最初で最後、かな。 最後か。 仕方ない、んだよね。 ぎし。ぎしぎしぎし。 ずる、 「さて、そろそろお別れだ…それじゃあね、空目くん。怪異になる予定はないからこれきりだよ」 「待て、……、」 どうしたんだろう。 無表情が、崩れた気がした。 「ばいばい」 ずるり。 「――――!!」 空目くんが、何か言った気がした。 けどそれはもう、風がうるさくて聞こえない。 せめて私はこれ以上彼を折り曲げないように微笑む。 彼の顔は、見えなかった。 (見えなかったんじゃない、私がそれを認識しなかっただけ) ごうごうと耳元で風が鳴る。 体を投げ出した時の、あの臓物がぐるりと腹の底から吐き出されるような、底冷えする感覚が断続的に続く。 重力に隷属した豪速の世界の中で、私の世界は止まったように遅い。 地面はまだ遠いようだ。 ねえそういえば、空目くんが名前を呼んでくれたよ。 、って。これも初めて。 ほんとはもうちょっと、呼んでほしかったな。 だってさ、空目くんが名字と名前が揃ってる人で名前を呼ぶのなんて、すごくすごく珍しいじゃない。 何でいきなり呼んでくれたんだろう。 (嬉しかった。凄く凄く嬉しかった) ねえ、考えたんだけどさ。 もし、もしもだよ。ありえないのはわかってる。でも考えるくらいはいいよね? 奇跡、それも奇跡の中でもとびきり実現不可能な――例えば天使がやってきて私を受けとめてくれるとか、できそこない達が山ほど集まってクッションになるとか――奇跡が起こって、私が助かったとしたら、どうしようか。 まず、うんやっぱりちょっとは泣くかもしれない。 空目くんは泣かないだろうな。文句の一つや二つでも言うかもしれない。 でもそうしたら、武巳くんと稜子ちゃんに、「空目くんが焦って怒鳴った」とか「別れ際に下の名前で呼んだ」とかを教えてあげよう。 きっと彼は今更ながら私のことをって呼ぶんだろうな。 でも無駄。そこからみんなに広まっていって、今度の部活で、初めて空目くんをからかうんだ。ファンクラブの二人と一緒になって。 武巳くんは思いっきり食いついてくるだろう。 稜子ちゃんはまた下世話な笑みを浮かべながら「稀に見るドラマチックな恋の物語」だの何だの、楽しそうに語ってくれるだろう。 俊也くんも笑うだろうな。 亜紀ちゃんも興味津々で聞いてくれるに違いない。 あやめちゃんも、控えめに、綺麗に、でも楽しそうに笑う。 空目くんだけ不機嫌そうに、迷惑そうに眉をしかめて本を読む。 そして私はその中で、そのときの話をお涙頂戴の名演技付きで語るんだ。 きっと。きっと楽しいだろうな。 普段からわかっていたはずなのに、やっぱり、日常は、素晴らしいものだ。 皆笑って。 仲間は誰一人欠ける事がない。 そう、もう怪異は終わったんだ。 だから皆笑う。幸せな笑みだ。 これからは胸を痛めるような真面目な話じゃなくて、くだらない話で笑いあう。 好きな本の話。 自分の書いた小説の話。 恋愛の話もする。 そしたら、空目くんがまた否定的な弁論をずらずらと述べて、皆圧倒されちゃうんだ。 皆呆れ笑い。あやめちゃんは一人おどおど。 ああ、想像しただけでそんなの、胸に余るほどに幸せだ――― (そこから私が欠けたら、どうなるんだろう) ふと、目の前が光に包まれる。 落ちていくうちに、日差しの中に出たみたいだ。 空を見る。 どうやら私は逆さまに落ちているみたいで、足も一緒に見えた。 変な感じ。 空に立っているような、現実感のない、浮遊。 私は、今、落ちているんだよな。 上に目を凝らせば、空目くんが、私がさっきまでいた所が見える。 空が、突き抜けそうに青く、澄んでいる。 さすがに、彼と出会ったのもこんな日だった、とまでドラマチックにはいかないけれど。 そうこんな日は、桜の木の下のベンチでのんびりと風を楽しむんだ。 隣に座って、語らなくてもそれで十分。 同じ空の筈なのに、何だろう、ひどくつめたい。 空はどこまでも広く平等だからこそ、私のこともただ見るだけなんだろう。 いや、見てすらいないかもしれない。 無情。 そう、空はそうあるべきだ。 たかが私ごときが―――だけで、崩れてはいけない。 でもそれでも。 稀に見るほどの青さが、どうしてもつめたくて。 感覚のない指先から、冷たさが染み渡るように。 (つめたい。) ああ。 死ぬんだな、と思った。 地面が迫ってきたのが本能でわかるらしく、痛みを避けるために体が勝手に意識を薄れさせる。 駄目だ。駄目だ。 最後の、最後の一瞬まで、この世界を目に焼き付けたい。 美しく。 素晴らしく。 無情な。 大事な大事な、私の世界。 ねえ本当は、 ―――駄目。 ねえ本当は私は、 ―――駄目だ駄目だ! ねえ本当は私は、まだ、 ―――駄目だ思うな、そんなことは思うな! 消さなくちゃ。 未練は残さない。 遺したら、それは何らかの形で具現する。 だから駄目だ。思っちゃ駄目。 違うことを考えよう。 地面が遠い。 そう、世界に別れを告げよう。 ばいばい。 さようなら。 楽しかった。 ありがとう。 さようなら。 まだ、地面には届かない。 ―――そういえば、さ。 空目くんにまだ好きって言ってないよ。 私は君が―――好きだったって。 ううん、だったじゃない、―――好きだ。 ねえまだ、言ってないよ。 空目くんは、そこにいるんだよ。 さっき言えば良かったなあ。 もう、―――言えないのかな。 言えないんだよね。永遠に。 これは誰にも言ってないから、空目くんに伝わることはない。 彼は、私が灰になって、地面の下からどんなに叫ぼうとも、この思いを知ることはない。 ねえ、空目くん。 待ってよ、まだ言いたいことがあったんだ。 遠い。 ひどく遠い。 世界は、待ってくれない。 どんなに叫ぼうとも、もう届かないだろう。 言いたかった。 伝えたかった。 好きだって言って、空目くんの恋愛否定論が聞きたい。 それでいい、それだけでいい! ただ、彼に伝えられるだけでいいんだ! ―――。 だけど、 もう、 ――――――。 ―――。 駄目だ。 なんでもない、そう、なんでもないんだ。 どうでもいいじゃないか、そんなこと。 (どうでもよくなんかない、一番大事なことだ) じめんが、せまってきた。 もうそろそろ、終わりだ。 さあ、悔いなく。 あっさりと別れよう。 ぎしり。 胸が、歪んで、軋んだ。 なんだ、もう今終わるというのに。 頭の片隅、一番奥。 私の、一番素直な気持ちがしまってあるところが。 何か、ひどく、痛む。 ―――ねえ、 待て。 ―――ねえ本当は、 言っちゃ駄目。 ―――ねえ本当は私は、 思っちゃ駄目だ。 ―――ねえ本当は私は、まだ、 駄目、…………… 空目くんが握っていた手が、空に溶けて冷たくなる。 (いやだ) 彼の温もりが、消える。 (いやだいやだ、私からこの名残を奪わないで) ずきん。 ずきんずきん。 胸が、痛い。 引き千切れそうに、痛む。 温もりがひどく恋しくて、何だろう、目が、熱い。 これは何?何で私は、 こんなことを思っている? (だってこれは、私の本音。今までずっと無視してきた、正直な気持ち) ねえ、本当は私はまだ、 ―――。 ねえほんとうはわたしはまだ。 (死にたくない) (死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない) 「、しにたく、な ――――――。 空が、青くて青くて青くて青い。 ひどく近くて、異様に遠い。 私はそれに反抗するように、赤く赤く赤く。 真っ青な空に正面から向き合って、赤く赤く染まる。 いくら私が赤くなったところで、空を赤く染めることなどできはしない。 だけど、どうしても。 灰色の地面にぽつんといる中で。 彼にすぐ見つけてもらえるように。 大きく、赤く、咲いて。 ねえ、空はつめたくなんかなかったよ。 ほらこんなに、こんなにあったかいよ。 真っ青な空におおわれて、そのしたに。 真っ赤なわたしと、真っ黒な、もうひとつの空。 わたしのすぐちかくに。 かれの空の意味は、空ろの空。からっぽの空。 でも、「名は体をあらわす」っていうのも、いまだけは嘘におもえる。 だってほら、かれはこんなにあったかい。 わたしは、つめたい? ちがうよ、かれにあたたかさをあげてるんだよ。 だってほら、わたしのことは空が、真っ青な空と真っ黒な空があたためてくれるから。 きみがこんなにちかくにいる。 いまならとどくよね、きっと。 そうさきっととどく、つたわる! ずっとずっといいたかったことが、いえなかったことがいえるんだ! 空目くん。 君が好きだよ。 君が好きだよ! ねえいえた、いえたよ? とどいたよ、だってみみもとでいったんだ。 とどいたんだ、かれに、つたわったんだ――― だきしめてもらっても、わたしのだきかえすうではつぶれてしまったけれど。 でもこれでだいじょうぶ、わたしは、もう、これで。 嘘だ。 やっぱり、ほんとはすこし、少しだけ――― いや少しなんかじゃない、心の底から。 いくら彼に伝わったとしても、彼の温もりを手に入れたとしても、やはりそれは消しようのない素直な思い。 本能的で根本的で、一番大事な、一番大きな思い。 最後の最後だ。 この際もう未練を遺すだなんて気にしない。 未練がましく世界に願おう、無情な青い空に届くように! 死にたくない。 死にたくない死にたくない! 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない、 しにたく、な――― ***** その言葉は、永遠に閉じられることはない。 |