|
「―――…ん……やあ、空目くん。どうしたの?」 「……この場合」彼は一度言葉を切って軽く息を吐く。 「その質問は俺がする方が的確だろう」 「それもそうだね」 いつものやりとり。 私が軽く話し出し、彼が低く冷静に応じる。 予定調和であるかのように滑らかなその会話は、そうであることに何の意味も利益もないのに少しだけ愉悦を感じさせてくれる。 それはおそらく――彼が相手でなければ感じなかったであろう、特別なもの。 いつもの場所。 中庭の、桜の樹の下にある青いベンチ。 魔王陛下のお気に入りの場所。 桜も散ったというのに彼はそこに座っていた。 季節は春。 桜の花は大半が既に散り、ちらほらと瑞々しい若葉が枝から芽を覗かせている。 和桜は淡い緑色、柳桜は今が散り行く最も美しい時期、八重桜はまだ九分咲き―――そんな時期だ。 少し前までそれはそれは見事な花のトンネルを作り出していたソメイヨシノの並木もすっかり若葉の緑に染まり、褪せたような赤茶色をした煉瓦タイルに日差しを透かして、複雑な形の影ときらきら光る木漏れ日を落としている。 青く塗られたベンチの影には散り落ちた桜の花びらが降り積もり、ごく薄い桃色の、小さな影を作っている。 「それじゃあその質問に答えようか。私はただ、天気がいいから散歩をしているだけなのだよ」 さわり、と暖かい風が頬を撫でていく。 「君は?」 「…似たようなところだ」 黒づくめの魔王は風にあおられる前髪を手で押さえながら無感動な風に言った。 少し前までは肌に凍みていた春風も、今は光をそのまま内包しているかのように暖かく、新緑や花の香りと相まって、得も云われぬ程に心地良かった。 「へえ…?空目くんがか?どんな風の吹き回しかな―――ああ、こういう風の吹き回しなのか」 なるほどね――― 目を細めていっぱいに風を吸い込む。 異界が恋しくなるような桜の花の香りはいつしか控えめになり、代わりに強く香る草いきれのような春らしい匂いが体を包んでいく。 「さすがの空目恭一も春の息吹の前には心を震わせざるを得ない、か――」 「――どういう意味だ」 「傍から見たら君は感情が摩滅しているようにしか見えないからね。――隣、いいかな?」 彼は無言で首肯した。 それでは、と遠慮なく隣に座らせてもらい、背もたれに体を預けて空を見上げる。 端っこを薄い色の若葉に覆われた白雲の浮かぶ空は、突き抜けるような青さを誇っていつもと変わらず悠々と頭上に存在していた。 「―――俺の感情は、摩滅などしていない」 「知ってるよ」 「知っていたのか」 「そのくらいわかるさ」 ふん、と彼は鼻を鳴らす。 「先程の発言と矛盾しているな」 「していないさ。私はただ―――『傍から見たらそう見える』と言っただけで、私がそう思っている―――とは言っていないからね」 「屁理屈だな」 「百も承知」 目に映る春の景色は――ひどく美しかった。 「君の感情は――動かない、だけなんだろう?」 ぴちちち、と番いの小鳥がさえずりながら空を駈けていく。 「ああ」 「一度異界を『識って』しまったから、この世界の刺激程度では君の心を動かすに至っていない―――違うかな?」 「いや、それで概ね正しいだろう」 「――随分憶測的な物言いをするんだね」 「憶測に過ぎないからな」 「自分のことなのに?」 「自分のことだろうと他人のことだろうとこの場合は関係ない」 「そんなものかね…」 「ああ」 彼はそれきり黙って、眩しそうに空を見上げる。 私も口をつぐみ、それに準じた。 やわらかな風に、ゆらゆらと若葉が揺れる。 地面の木漏れ日が、現れては消え、現れては消えと、泡沫のように煌めいている。 こんな日は、創作意欲が湧く。 けれどそれは湧くだけの枠だけのもので、いざ取り掛かろうとしてもアイディアは浮かばず、筆は進まず―――結局それは消え去ってしまう。 それがひどく、もどかしい。 どうしてもこの風景を、この暖かさを、この輝きを、この息吹を、文に、句に、絵に、音に、してみたいと思うのだが――それはただの胸を掻き毟られるような衝動に留まってしまう。 「―――この世界は」 唐突に、彼が口を開いた。 「随分と――まとも過ぎるな」 「おや、どうした?君らしくもない」 異界を奨励するような事を言うなんて。 笑いながらそう付け加えても、彼は至って真面目なまま。 「異界を奨励しているわけではない」 「そうかな?そう聞こえるけれど」 彼は、すん、と鼻を鳴らす。 そうして彼は言う。淡々と。 「―――…時々、」 「うん?」 「時々、懐かしくなる――それだけだ」 ただ淡々と、白い紙に書かれた活字を読み上げるかのように。 「――――」 懐かしく、ねえ。 「それが、例え嗅覚だけのものであったとしても?」 「ああ。――いや、正しくは違うな。非科学的だが、『気配』もあった」 「嗅覚と気配――それだけか」 わからなくも、ないけどね。 「懐かしい、か――」 確かに、異界に比べてしまえばこの世界はまともすぎるだろう。 こんなに美しいのに。 なのにどうしても、異界の方が鮮烈に写ってしまう。 あってはならないことだとわかっていても、この世界では既に、感情は動かなくなってしまう。 こんなに、美しいのに。 「気をつけてよ?また異界に行こうとしたら―――泣くからね?」 冗談めかして笑って言うが、紛れも無く本気だ。 「わかっている」 至って平然と答えながら、彼は膝に置いた手をぎゅっと握り締めた。 また、風が吹いた。 少し強めのその風は、伸ばしっぱなしの私の髪をぶわりと煽って躍らせて彼の方になびかせた。 「うわっ」 慌てて手で押さえる。 前髪がばたばたと暴れ、否応無しに目を閉じさせられる。 風が止んで髪が落ちついて、手櫛で整えながら目を開く。と――― ―――何故か、彼がこちらを見つめていた。 「――――?」 そういう風に急に真っ正面から見据えられると心の準備の整っていないこちら側としては無意識に心拍数を上げざるを得なくなるのだがね空目くん、などと句点抜きの長ったらしい口答えを頭の中で並べ立てるも、それは喉を介して空気を震わす言葉に進化させる程の何かを、今の私は持ち合わせていなかった。 彼はしばらく私を凝視した後、すっと静かに身を乗り出して、私の方に顔を近づけてきた。 「――――――、」 だからね空目くんそういうことをするとだねこちらの世界でも十二分に感情が動いてしまう私と私の心臓はちょっとばかし大変な事になってしまうのだよということがわからないのかな?と、そろそろ切羽詰ってきた脳内で反論をするも、やはり声にはならない。 私の心の叫びなど露知らず、彼は矯めつ眇めつ私を眺めて時折ひくひくと鼻を動かしては眉をひそめ、最期に確認するように小さく頷いた。 「どうか―――した?」 やっと、それだけが出た。 「――――――」 彼は答えない。 しかしそれは、答えの前の「間」のようなものであるような気がして、質問を無視されたという不愉快さは微塵も感じさせなかった。 「―――」 彼は答える代わりに、私の名を呼んだ。 「…何かな?」 呻き出しそうになる舌を叱咤して、応えた。 「少しでいい―――動くな」 彼は無感動な風にそう言うと、私の背に手を回して、自分の顔を私の首筋に押し付けるように―――ぎゅっと、抱き締めた。 「――う―――つめ、く、」 びくん―――と、心臓が跳ねた。 肩の辺りに、心地いい重みがかかる。 詰まったような息苦しさは、決して抱きしめられているが故の締め付けによるものだけではないだろう。 触れられている首筋の神経が、彼の肌の感触をありありと大脳に伝えてくる。 なんだか、くすぐったい。 じわりと服越しに彼の体温が伝わってくる。 普段は無機質にさえ見える黒ずくめの彼は―――どうしようもなく暖かかった。 そしてそれ以上に、今の私の体は熱を持っている。 心臓は混乱したかのようにどくどくと、必要以上に血液を送り出し、顔面は自ら感知できるほどにかっと火照り、全身の筋肉は伝達神経が千切れたかのように強張ってぴくりともしない。 まったくもって、らしくない。 私は、何事があろうとも冷静で、顔色一つ変えずに必要な事を遂行して遂げる、そんな人物のはずだ。 ―――と、言える日を目指している人間だ。 そんな奴がここまで取り乱すとは。 いくら、こんな、状況だからって――― ―――無理も無いけれど。 心のどこかが、そう告げた。 ふわり、と春のそれとは違う匂いが鼻をくすぐる。 ああ―――空目くんの、匂いだ。 ときん―――と、また小さく心臓が鳴った。 ああ、これではいけない。 「何を―――しているのかな?君は―――」 必死に平静を保って、固まった舌を奮い立たせて、問うた。 「――――――」 空目恭一は答えない。 ただ黙して、私の首筋に顔を押し付けて――― ――――――、 首筋? というか、首の付け根、鎖骨の辺り――― 脳が、何らかの可能性を告げる。 ―――まさか。 「まさか―――郷愁、か?」 首元に、彼が頷く感触が伝わった。 ――――――。 ―――聞いてから、少しだけ後悔した。 「私の匂いが―――異界の匂いだと?」 また、空目は頷いた。 ―――――。 未だ人界の魔王は――彼らしくもなく――まるで縋るかのように私を抱き締めている。 ―――郷愁、か。 ――確かに、首筋なら匂いを嗅ぐのには適した部位ではあろうけれどね。 にしても、郷愁か。 求めていたのは私ではなくて――異界、だったのか。 ――そりゃあそうだよね。 それを思うと、何故か少しだけ――胸の辺りが、締め付けられた。 「君が連れていかれた異界と私は――違うと思うけれどね。匂いが」 気の抜けるような落胆と共に頭が冷え、何だか少しムカついて、生意気に反論をする。 「――いや」 そのままの姿勢で、空目は言う。 何というか、唇と顎の動きが首筋に伝わって、かなりくすぐったい。 しかし口に出すのもなんだか気に喰わないので、またしても何事もない風を装った。 装いきれているかどうかは、不明だけれど。 「お前の匂いは――総ての異界の匂いに通ずる」 「――初耳だね」 「言わなかったからな」 至極当然にして自明にして当たり前のことを言われた。 ―――というか。 何なんだろうこの絵面は。 普通は立場逆だろう。 恰好といい、郷愁といい、これじゃあまるで――― 「――母親みたいじゃないか」 小さくぼそりと呟いた言葉は――幸いにもと言うべきか、吹いた風がさらっていってくれた。 ――こんな息子は、間違っても欲しくない。 せめて夫で。 なんて。 自分の思考に脳内できゃあきゃあ騒いでいると、ふいに彼が身じろぎして、腕を解いた。 「―――すまんな」 「気は済んだ?」 「ああ」 素っ気なく言って、私から離れる。 それが郷愁のためだったと判っていても、それでもどうしても暖かさを失った肌は寂しくて、けれど伸ばしかけた手は彼には届かなかった。 「じゃあ、私はそろそろ」 そうなると何故だかこの場から一刻も早く逃げ出したいような、そんな変な気持ちがぐるぐると渦巻いて、突発的にベンチから立ち上がった。 馬鹿だなぁ。 本当は、もっと一緒に居たい筈なのに。 「それじゃあ」 ひらひらと片手を振って、足早にその場を去ろうとする。 ―――なのに、 「待て」 と、手を掴まれた。 ―――やめてよ。 これ以上、期待させないで。 これ以上、落胆させないで。 腕を掴まれたのは泣きたくなる程嬉しかった。 けれどそれは同時に、泣きたくなる程辛かった。 「この先、また何時『懐かしく』なるかも知れん。その時は――」 「――また?」 あれを、繰り返すというのか。 「ああ」 それは―― ――やっぱり嬉しくて、 ――やっぱり辛かった。 「お前は――いわば異界そのものだからな」 その言葉の意味を、私は即座に理解することは出来なかった。 「―――え?」 数瞬の間の後にやっと出たその言葉は、しかし彼が既にその場から背を向けていたことによって、またしても風に溶け去ることになった。 ―――その後。 割と面白くわかりやすい教師の授業なのに、私は全くにおいて集中出来なかった。 原因は、わかりきりすぎて明確な言葉にするのすら億劫だ。 ――というのは半分嘘。 その名を考えるのに、億劫などという感情が生まれる訳が無い。 ―――空目くん。 最後の、あの言葉。 『お前は、いわば異界そのものだからな』 って―――さあ。 さっき、あんなことを考えてしまった身としては―――聞き捨てならないどころの話ではない。 求めているもの=異界 異界=私 となったからといって、数学的に単純に 求めているもの=私。QED となったわけじゃない。 求めているもの=異界 異界=私 この間の、改行が。 =を二つ使う式という形が。 些細な隙間なのに、どうしようもなく大きくて。 けれど、完全に必要とされないよりは遥かにましで。 それでもやはり、その隙間を埋めたい気持ちもあって。 葛藤は終わりそうにもなく、何か面白い事でもあったのだろうか笑い声に包まれる教室の中、一人だけ窓の外を見る。 空は相も変わらず青く、木々は相も変わらず瑞々しい緑で、そのあまりの春爛漫っぷりが少しだけ恨めしくなった。 そしていないとわかっていつつも――黒い影を探してしまう視線をいなして、黒板に視線を戻した。 ―――こんな筈じゃ、無かったんだけどな。 ああ、また顔が熱くなっている。 心臓まで早くなっている。 教室の方を向いていたら、噂好きなクラスメイトの女子にからかわれそうな気がして、また窓の方を向く。 ―――。 と。 教室移動なのだろう、直角に曲がった隣校舎の窓から、整然と並んだ生徒の一団が見えた。 前列から、虱潰しに一人一人チェックしていく。 ―――いない、 ―――いない、 ―――あ。稜子ちゃん。 知り合いの少女を見かけて、少し嬉しくなる。 彼女は忙しなく視線を黒板とノートとを往復させ、熱心に手元を動かしている。 可愛いなぁ、と笑みがこぼれた。 しかし、あの子がいるということは、あの一団の中にはいないだろう。 少し落胆して、視線を―― ―――!! 何をしているんだ、私は! 一気に頭が熱くなる。 阿呆か―― 何を乙女のようなことをしている―― いるわけがないのに。 わかっていつつも、自然と彼を探していたなんて―― 照れ隠しに、強く息を吐く。 突っ伏した机はひやりと頬に冷たくて、少しこの火照りを和らげてくれる気がした。 前髪を掻き上げて、突っ伏したまま黒板を伺い見る。 鴨羽色の黒板に、白と黄色で線がのたくっている。 中身が、頭に入ってこない。 というか、暑い。むしろ熱い。 ――まったく。 あの少しのやり取りだけでここまで私の心を乱してくれるとは。 相応の覚悟はあるのだろうな。 浮つく脳味噌と愛しい彼を同時に恨めしく思いながら、窓を開ける。 途端に、何とも言えず心地よい風が教室に滑り込んで、体を冷やしてくれた。 隣からの、ちょっとした苦情は少し無視する。さんには悪いが。 硝子を隔てない世界はやはり美しくて、一瞬だけ葛藤を忘れさせてくれた。 ――とりあえず、この思いをどこにぶつけてくれようか? その矛先に己があることも知らずに、世界はただただきらきらと美しく、本当に美しく輝いていた。 ――なあ、世界よ? ――こんな葛藤、お前にとっては些細なもの極まりないんだろうな。 呆れたような、溜め息が出た。しかし、顔は自然と笑みの形に歪められる。 ああ、もう―― この馬鹿―― 季節は春。 きらきらとした春爛漫の世界の中。 少女のひどく些細で重大な葛藤は、終わりそうにもない。 |